今回は3月2日放送の番組

金スマ 特別編

野村克也が忘れられない

沙知代の言葉

を振り返ります。

 

もうすぐ3ヶ月・・・。

 

去年くらいから“死”について50年の

夫婦間で話し出していたそうです。

 

野村さんは、俺より先に死ぬなよ

と、言い続けてきたんだけど、

先に逝かれちゃった。

ずるいよな。と語った。

 

家に帰ると寂しいのを

通り越してる。

 

男の弱さとか

痛感してる今。

 

 

 

 

昨年の12月4日に虚血性心不全で

お亡くなりになられた

野村沙知代さん享年85歳。

 

ご冥福をお祈り致します。

 

強烈なキャラクター、

サッチーという愛称で人気

だった沙知代さん。

 

野村さんが一番、心に

残っている言葉は、

何でもプラス思考

何を言っても

「なんとかなるわよ」

あの言葉が耳に焼き付いて

いるという。

 

沙知代さんと交際した事で、

野球追放の危機に陥った

野村さんは、野球界に復帰は

100%ないと思った時、

「なんとかなるわよ」

といわれたそうだ。

 

 

   

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野村さんの追放の危機は、

1970年に始まった。

 

某中華料理店で昼食を

とっていると、当時35歳で

南海ホークス選手 兼 監督

野村さんは、当時38歳の

ボーリング用品の輸入会社を

設立した女社長 沙知代

出会った。

 

この出会いが野村さんの

野球人生を躓かせていった。

 

いきなり、店のママによって

引き合わされた。

 

野村さんの、沙知代さんに

対する第一印象は、

年のわりにはキレイ、

脚がキレイだと

思っていたという。

 

 

野村さんは監督をしていて、

雨が降ったら商売になりませんね、

と聞いた沙知代さんは、建設現場の

監督だと思っていたようです。

 

生前の沙知代さんの取材で

道路でピーってやってる人だと

思って、その程度と話していた。

 

沙知代さんは、子ども達に自慢

しようと思って電話すると、

初めて野村さんがプロ野球の

大選手だと気付きお守りを

プレゼントした。

 

野村さんは、プレゼントの

お返しに当日の試合に招待!

 

沙知代さんは子ども達

後楽園球場に行って試合を見ると

お守りのおかげもあってか

野村さんは、特大の

ホームランを放った。

 

それ以来、東京遠征のたびに

沙知代さんや子ども達と食事

するようになったという。

 

 

沙知代さんには、2人の子どもが

いたが、とは別れている。

 

ところが野村さんには、が!

 

当時の事について野村さんは、

サッチーと知り合ったから

前の奥さんを捨てたんじゃなく、

別居して一人で住んでいた時

タイミングよく会っただけだという。

 

沙知代さんと出会って3年後、

籍は入れていなかったが、

息子 克則さんが誕生する。

 

 

   

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1975年に史上2人目の

600号本塁打を記録したが、

1977年に野村さんの自宅

マンションに泥棒が侵入した際、

2人の関係が知られてしまう。

 

球団内部から批判され後援会長

である、ある住職のもとを訪ねて

相談したが、野球をとるのか

女を取るのか決断を迫られる。

 

この世には野球以外の仕事は

ありませんが、沙知代は

私にとってこの世で

一番の女性ですと言った。

 

球団はそれを許さず、1977年の

9月に南海ホークス監督を42歳で

解任し、24年在籍した同チームを

去ることになった。

 

その理由は、沙知代さんとの

愛人関係。

 

野球がダメでクビなら納得いくけど

女性問題なら野球界復帰はないと

思っていた野村さんは、スターから

無職のどん底へ。

 

そんな時、沙知代さんが言った

一言が生涯忘れられない言葉

なった事を野村さんは話す。

 

2人一緒に居られたらそれでいいの。

 

「なんとかなるわよ!」

 

車の中で、野村さん一人で

悩んでいると、横で

「なんとかなるわよ!」

沙知代さんの全て前向きな

返事が返ってきたという。

 

 

   

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