今回は、9月15日放送分

やり直して儲けた人

振り返っていきたいと思います。

 

芸能界で活躍するも引退し、

別の道を歩み、大成功している

方々から儲けの秘訣を学ぶ番組。

 

 

   

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元イケメン俳優の大塚朝之さんは、

猿田彦珈琲を10店舗経営する

年商9億の社長だという。

 

コカ・コーラ社で発売されている

「ジョージア」の監修をした事で

有名となり、2004年から現在まで

コカ・コーラと共に、その味を守る。

 

猿田彦珈琲恵比寿店は、2011年に

オープンし、7年で10店舗を構えた。

 

巨大焙煎機に1億円、3,000万円の

マシーンを練習用のためだけに

使用するなど、設備投資が凄かった。

 

不合格の豆は使用しない!

 

9月30日には、11店目を

台湾にオープンさせるというが、

そこまで辿り着く前は貧乏生活を

行っていたようです、

 

俳優を10年やっていてお金が

ないので母親のスネを

かじってばかり。

 

2003年に映画、

突入せよ!「あさま山荘」事件

19歳の時に犯人役として出演したが、

月収2蚊ら万円程度で、オーディションを

受けまくるも不合格の日々を過ごす。

 

カラオケのバイトもしていたが、

それだけでは生計が立たずに、

生活費を母親から借りていたという。

 

そんな日常が続き、俳優を続ける

自信もなくなり、人と会話する

事も怖くなっていた時に、

心を支えてくれたのは、近所の

カフェの1杯のコーヒーと店員さん。

 

再び俳優を目指していた25歳の時、

映画の主演に抜擢したと思った

矢先、制作中止になってしまい、

大塚さんは、俳優引退を決める。

 

人生初の就職活動するも、

オーディションと同様、

上手くいかなかった大塚さんを

みかねた同級生から自身が

店長をしている所で働かないか?

と誘われ、大塚さんは無職から脱出して、

コーヒー豆の販売店で働き始めた。

 

またコーヒーに救われ、これも何かの

縁と考えた大塚さんは、半年で

コーヒーマイスターの資格を取得した。

 

働いて1年が経過した頃、当時では

珍しい紙コップにして、高級な豆を

手頃な値段で提供した。

 

大塚さんが考える、良いコーヒーとは、

後味がきれい なめらかさ

フレーバーを感じる

 

お店の内装は、自分たちの手作りで

20万円をかけて恵比寿のお店を

オープンさせると200人の

お客さんが訪れた。

 

長引いた内装工事が集客に

繋がったのだそうだ。

 

事業拡大の戦略は、異業種とのコラボ

 

 

 

 

コラボした所の

ファンに知ってもらう事で

将来的に顧客の幅を広げて

売上に繋げている。

 

大塚さんと高田さんがコラボするなら、

こんな計画を立てるという。

 

 

 

 

 

   

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10年間、鳴かず飛ばずだった芸人の

古川正明さんがバーべ急便

年商3億円に。

 

お客さんには、買出しも準備も要らない!

 

終わったらそのまま。

 

バーべ急便社員さんたちが、

買出しと準備、終わった後の

洗い物をおこない、お客さんに

焼いて楽しむだけを提供する。

 

会社の慰安会などに人気で、

利用者は、店だとグループが

出来てしまうが、普段話さない

部署の社員が集まって出来る

コミュニケーションツールとして

最適だという。

 

現在では、東京や名古屋、秋田などにも

営業所を展開している。

 

だが、ここに来るまでには、

古川さんの貧乏生活があったそうだ。

 

高校卒業後、芸人を目指した

古川さんは、幼馴染と漫才コンビ

WINNER’Sを結成し、1994年には

第24回NHK上方漫才コンテストで

審査員特別賞を受賞する。

 

でも、1ステージのギャラは700円で

芸人としての古川さんの収入は、

月2万前後だったため、弁当配達の

アルバイトをしていたが、

子どももいた。

 

芸人8年目の時の舞台に、

相方がすっぽかし、

関係者を激怒させてしまう。

 

古川さんが理由を聞くと、

パチンコの連チャンが止まらず

行けなかった事を知る。

 

相方は、芸人を続ける気が

ないと、コンビ解散を決意し、

ピン芸人の道へ。

 

 

芸人生活10年目になると、

が2人目を妊娠している事が

わかると、古川さんは芸人を引退。

 

そして古川さんの成功のきっかけは、

アルバイトの配達先で見たドラム缶で

焼肉をする工員と、準備をする総務の人

を見て、会社の慰安会での準備に目を

つけた事で、ある時は、2000人の

BBQの準備をした事も。

 

駐車場のスペースで始めたビジネスが、

巨大な倉庫を借りるまでに成長し、

ビジネス拡大の戦略として、

社名を福利厚生援護会にする事で、

大きな会社に営業に行く際に

バーべ急便だと断られるが、

あえてカタい名前にして信頼を得た。

 

 

   

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元プロ野球選手の中村隼人さんは、

わずか4坪の狭いお店で年商1億円。

 

立ち食い焼肉の店長をして、

肉を1枚ずつ注文するスタイルで

回転率をUPさせていた。

 

 

やり直して儲けたアシスタントとして、

元おニャン子クラブ 会員番号15番の

立見里歌さんや、渡辺めぐみさんが

登場した。