今回は5月19日放送の

中居正広の金曜日の

スマイルたちへ

歌姫波乱万丈SPを振り返って

みたいと思います。

 

 

大黒摩季さんの

ブレイクまでの道のり

 

大黒さんが音楽と出会ったのは

3歳の時で、が買ってくれた

ピアノがきっかけ。

 

それは、誕生日プレゼントに

リカちゃん人形が欲しかった時に

強引にアップライトの

ピアノを貰ったそうだ。

 

ママはおさんになったら

にピアノを弾かせたい

という夢があったから。

 

 

幼い頃からピアノに触れ、

育ったことで手に入れたのは、

絶対音感。

 

中学に入るとバンドを組み、

音楽に没頭すると、

力強い歌声を発揮。

 

高校生になる頃には、

その歌声を買われ、

ボーカルを担当する。

 

地元の札幌では、

名を知られた存在に

なっていた。

 

16歳の時、パパ

周年のお祝いがあるから

歌ってみれば?と言われ、

エンペラーという

グランドキャバレーで歌う。

 

そういう所から

プロ意識はちょっと

あったかもしれないという。

 

高校卒業後の1988年に

18歳で歌手を目指して上京。

 

そして、Beingという

音楽制作会社との

運命的な出会いがあった。

 

Beingは、まだ当時 デビュー

したばかりのB’zをはじめ、

TUBET-BOLANWANDSなど、

90年代の音楽業界を席巻する

こととなる多くの

人気アーティストが所属する

レコード会社。

 

 

   

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20歳の時にビーイング主催の

オーディションに参加した

大黒摩季さんは、会社の

プロデューサーから

よかったらうちで、

コーラスでもやりながら

勉強したらどう?

 

今の君みたいなのは

いっぱいいる、才能なんて

全然ないと思うと、

言われたそうだ。

 

大黒さんは当時のことについて、

カチンと来ましたよね、そりゃあ。

自分のこと天才と思って

出てくるからね、田舎からは。

と、振り返る。

 

実はこの時、その実力と歌声に

目を付けられ、複数の音楽事務所から

声をかけられてはじめていた。

 

だが、大黒さんは

バックコーラスの道を選ぶ。

 

東京ってすごい人が

沢山いるんだ、

悔しいけど、かっこいい。

 

私よりすごい人たちって

いるかもねみたいなのは

気づき始めてた頃だったから、

育てて貰いたかったから、

賭けてみようと思い、

バックコーラスとして

活動をスタートさせる。

 

 

バブル絶頂期、

華やかで勢いのあった

音楽業界の中で地道の

下積み生活を続けていた

大黒さんだが、心が

折れることはなかった。

 

 

バックコーラスの時は、

これは最高の

カルチャースクール

だと思って、お金を貰えて

習えるならそれで良いと

ピンからキリまで

数をやったと話す。

 

 

   

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すると、いつしか

名立たるアーテイストから

指名され、数々の名曲に

コーラスとして参加した。

 

その一部として、

B’z愛のままにわがままに

僕は君だけを傷つけない

 

T-BOLANじれったい愛

 

WANDS世界が終わるまでは…

 

DEEN翼を広げて

 

酒井法子碧いうさぎ

 

などを紹介。

 

 

2年間の下積みを経て、

1992年に大黒さんは22歳で

待望のデビューするも、

ほぼほぼ売れなかったという。

 

3ヵ月後、いつものように

バックコーラスをするために

会社に行くと、面識のあった

CMプロデューサーと偶然再会。

 

明日、広告代理店に大事なCMの

プレゼンがあるが、使用する曲が

ないので、何でもいいから、明日迄に

1曲書いて欲しいと言われる。

 

偶然、舞い込んできた

起死回生のチャンスに

大黒さんが出したのは、

DDA・KA・RAで、

オリコン調べによる

売上は105万枚。

 

 

   

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