今回は2025年12月9日放送の
ザ!世界仰天ニュース
西田敏行 衝撃の生い立ちと
最期の1年
を振り返ってみたいと思います。
2024年10月17日 俳優の
西田敏行さんが76歳で亡くなった。
俳優生活58年、明るく楽しい役柄も
狂気的な悪役も、西田でなくては
ならないと監督に言わせる役者。
そんな西田敏行さんは数奇な
生い立ちが彼のキャラクターを
完成させたと言っても
過言ではないという。
あまり知られていない
西田さんの最期の1年と
俳優 西田敏行誕生の
瞬間はどんなものだったのか?
2023年9月、心臓の検査を受けていた。
人工の弁に替える手術をした方が
よかったが、死ぬまで役者をやりたい
というのが西田さんの想いだった。
ドラマの撮影のため、手術を4か月
延ばし、4か月に及ぶ撮影が無事に終了。
2024年の2月27日に西田さんは心臓の
大動脈弁を人工弁に替える手術を行った。
手術は成功、西田さんとって役者は
幼い時からの夢だった。
1947年11月4日に福島県郡山で生まれた
西田さんは、しばらくして東京に移り住む。
夫に先立たれた母が、
東京で美容室を開き、
女手一つで敏行さんを
育てていた。
そんな時、東京で知り合った
男性から結婚を申し込まれ、
すぐ姉に相談した。
男性には敏行さんと同じ年の
男の子もいて、その子が
跡取りになると思うと言うと、
姉が敏行ちゃんを私が育てても
いいかなと言われる。
1953年6月に何も知らない敏行は
母と福島の郡山にやってきた。
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敏行さんは数日間、姉夫婦の家で
過ごすだけだと思っていたが、
どれだけ待っても母は戻って来なかった。
やがて、名字も変わって
西田姓となった敏行さん。
姉夫婦には女の子がいたが、
生まれてすぐに伝染病で
命を落としていた。
病気にならないように
大事に育てられた。
裕福ではなかったが、
敏行のためなら
金を惜しまなかった。
当時、ケーキは特別なときだけしか
食べられなかったが、敏行の沢山の
友達ができてほしいと、ケーキを
振る舞った。
西田はのちに幼少期のことを、
幼いながら実の息子のように
演じていたのかもしれないと。
この経験が西田の代表作と
奇跡的につながる。
1980年に放送された
池中玄太80キロは西田にとって
初の主演ドラマで西田が演じた
池中玄太は新聞社に勤める
カメラマン。
3人の娘をもつシングルマザーと
結婚するが、すぐに妻は亡くなる。
こうして、全く懐いていない
3人の娘たちと暮すことになった。
子どもたちに裕福な生活を
させてあげられなくても、
必死に子どもたちと仲良く
なろうとする玄太。
それはまさに、幼い頃に
自分が経験した
姉夫婦の努力のよう。
なかなか親子の絆を強めることは
できず、それでも必死に
子育てに奔走。
父親失格と言われ続け、
不器用ながらも必死に
子どもたちに向き合っていく。
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池中玄太の姿に娘たちの
気持ちも変わっていく。
娘を信じ、濡れ衣を晴らそうと
する玄太、熱い思いは
娘たちに響いていく。
何度も娘たちとぶつかり、
不器用だが正直に生きる
熱い男の姿。
その姿が多くの人の心に響き、
西田は人気俳優となった。
この天職ともいえる俳優業、
それを目指すようになったのも、
姉夫婦のおかげ。
育ての親は敏行をよく映画館に
連れて行った。
観てきた映画を友達に身振り
手振りを交えて、見ている人の
心情までも描写し、伝えた。
みんなから注目される、それが
たまらなくうれしかった。
西田は当時から、ひょうきんで
明るく、目立ちたがり屋だった。
池中玄太80キロはアドリブが多く、
監督の石橋冠氏によると、西田には
専用のカメラをスタンバイし、
自由に演じさせたという。
俳優を本気で志し、
高校は東京の学校へ。
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