今回は9月16日放送の

誰だって波瀾爆笑

五木ひろしさんを

振り返ってみます。

 

本名は、松山数夫さんで、

1948年3月14日生まれの70歳。

 

身長172cmで握力は36kg。

 

下積みじだいは、芸名を5回も

改名したという。

 

NHK紅白歌合戦では、

現役出場歌手の中では最多の

47年連続中である。

 

2018年のカラオケリクエスト

ランキングでは、歌手別で7位!

㈱第一興商通信カラオケDAM調べ

2018年1月1日~2018年6月30日

 

 

   

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地元の福井でふるさと大使も

行う五木ひろしさんの本名は

父親が名付けた名前だった。

 

同い年には、泉谷しげるさんや、

ジャパネット高田の高田明さん等。

 

1984年に福井県三方郡美浜町で

生まれて、11歳と8歳上の姉が

着れそうな服を五木さんに買って

くれていたせいか、ワンピースの

スカートを着ていた事もあった。

 

4人兄弟の末っ子として育つも、

両親は幼い頃に離婚し、女手

1つで育ててもらっていた為、

母親父の役目もしていたという。

 

五木さんはある時、小さめでは

あったおはぎを独り占めし、

30個をバカ食いすると、動けなくなり

母親に激怒された思い出を明かす。

 

歌に目覚めたのは5歳の頃で、

歌ってお小遣い稼ぎ、

人前で歌を歌ったのは、

美空ひばりさんのリンゴ追分

だったそうだ。

 

五木さんが7歳の時は、野球を

したかったというが、野球部は

大声を出すので、喉に良くないと考え

断念し、歌手への夢が最優先だった。

 

10歳の時、美空ひばりさんが映画の

撮影に訪れたので見に行くと、

五木さんは自分自身に微笑んでくれた

ように思い、海へダイブしていた。

 

耳中学校に入学した五木さんは、

先生の癖をつかんで、有吉弘行さん並に

勝手に悪意のあるあだ名をつけるように!

 

よく廊下を走る女性教師には、

走りババアと名付け、

黒板に書いた字に丸をつける先生が

ゴリラ顔をしてる事から、ゴリ丸

にしていた。

 

また、五木さんの学校の制服は、

普通だと面白くなかった為、

ジーンズを購入して黒く染めて

登校していたという。

 

15歳になると歌手を目指し、

京都の関西音楽学院に入学。

 

16歳で雑誌 平凡コンクールで、

ミスター平凡のグランプリを獲得し、

デビューするがヒット曲に恵まれず、

貧乏生活を送ったそうだ。

 

デビューした時は、華やかだったが、

売れなくなってレコード会社も

変わって仕事がなくなり無一文に。

 

そんな時、家の中を探していると

たまたまフジテレビの食券が出てくる。

 

向かうまでのバス賃もなく、

東中野→新宿区河田町までの

往復に5時間かけて歩いたという。

 

仕事はなかったが、あるようなフリして

食堂で腹に溜まる丼物を注文し、

あまった食券はインスタント食品を

購入して歩いて帰る。

 

 

   

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17歳で新宿駅から

歌手デビュー。

 

現在の芸名に辿り着くまでに、

5回の改名している五木ひろしさんは、

松山まさる一条英一三谷謙

中川淳を経て現在の名前に定着している。

 

その中でも、松山まさるの時は

自分の名前と同じで愛着があったが、

を早く書くとになってしまう事から、

名前を松山まさ子と間違えられるた

事もあったそうです。

 

中川淳という名前の時は、

よこはま・たそがれの曲が

出来上がっていて、たまたま

早く仕事が来てしまうも

まだ芸名が決まっておらず、

急遽つけたのがこの名前で、

歌手生活54年の中で、たった1日

だけ使われ、よこはま・たそがれ

歌った日であった。

 

1971年、よこはま・たそがれ

日本歌謡大賞 放送音楽賞を受賞など

で同曲が大ヒット。

 

その後、紅白歌合戦初登場から

日本を代表する演歌歌手へ。

 

デビュー当時は、下積み時代の

苦労から人間不信となり無口。

 

29歳の時、田園調布に200坪の豪邸

を建て、41歳の時に11歳年下の

女優 和由布子さんと結婚。

 

フジテレビも協力して、

5億円の披露宴を行った。

 

今年、162枚目のシングル

VIVA・LA・VIDA!~生きてるって

いいね!~が発売する。

 

 

   

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