今回は6月15日放送の

チコちゃんに叱られる!

Don’t sleep through life!

を振り返ってみたいと

思いますので

宜しくお願い致します。

 

 

 

何も考えないで、

のほほんと暮していると

チコちゃんに叱られますよ。

 

 

ハワイのお土産といえば

マカダミアナッツチョコレート?

 

それがマモルの夢だったから

 

詳しく教えて下さるのは

ハワイで弁護士をしている

マモルさんのおい

トニータキタニさん。

 

今や日本だけでなく、

世界中でハワイの

お土産といればこれ!

と言われるほどの人気を

誇るマカダミアナッツ

チョコレートですが、

自信のルーツについては

ほとんど知らないという。

 

 

FAMILY CHICOTORY

ファミリーチコトリー

 

19世紀後半、ハワイ王国の現在の

およそ半分を支えていたのは、

砂糖産業。

 

しかし、サトウキビ農園での

労働力は不足していた。

 

そこで、ハワイ王国は

移民として海外からの

労働者を募った。

 

これに応じた日本人の一人が

山口県で農家を営んでいた

滝谷源助さん、マカダミア

ナッツチョコレートの曽祖父

 

農家の貧しい暮らしから

抜け出せると思った源助

イシさんを連れて

ハワイに渡った。

 

 

   

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源助などの移民たちは

ハワイでどのような

生活をしていたのか?

 

 

ハワイの歴史に詳しい

山口大学 国際総合科学部

杉井学教授に伺うと、

ハワイの夏は常に貿易風が

吹くので、サトウキビの収穫や

加工のほかに防風林の手入れも

しないといけなかった。

 

人手はいくらあっても

足りなかったので、

日本から来た

移民達は大活躍。

 

1889年にマカダミアナッツ

チョコレートの祖父にあたる

勘一が誕生。

 

商売の才能があった勘一は、

ソーダ飲料やアイスクリーム

などをハワイで販売し、

成功を収めた。

 

そして、1912年に勘一

ミツとの間に

三男として生まれたのが、

マカダミアナッツチョコレート

の父だった。

 

は生後すぐに山口県の親戚の

家に預けられ、成人するまで

日本で過ごす。

 

が二十歳になった時に突然、

勘一からハワイに

呼び戻される。

 

勘一はハワイで6つの

会社を経営。

 

は、そのうちの1社

ソーダ飲料を製造する

製造会社を手伝うことに。

 

ハイメてハワイに渡った

は異文化に馴染むため、

一から英語を学ぶ。

 

そして、24歳になった

ハワイで出会った日系人

愛子と結婚。

 

の仕事を手伝って

いくうちに、の心に

起業したいという思いが

芽生えた。

 

しかし、を助けたいという

気持ちと、起業したいという

思いで葛藤していた

 

 

   

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背中を押したのは、

妻 愛子の自分の

好きなようにおやりなさい

という一言だった。

 

の言葉に応えるべく、

起業家としての一歩を

踏み出すことを決意。

 

しかし、1941年に日本軍が

ハワイの真珠湾を攻撃。

 

が勤めていたソーダ飲料の

会社はアメリカの管理下に。

 

の自由は奪われた。

 

終戦を迎えると、勘一

戦争の疲れからか、

会社経営からの引退を決意。

 

だけでなく、 勘一

支えるために起業する

夢よりも生活の安定を優先。

 

アメリカの管理下から離れた

会社を軌道に戻すために

尽力する。

 

そして5年後、が38歳の頃に

会社の経営は回復し、自らの

手で起業するという夢の現実に

向け、動き出す。

 

どんな事業にするか考えていた

の目に留まったのは、

サトウキビ農園を囲む防風林。

 

実は、防風林として

植えられていたのは、

マカダミアの木だった。

 

商品としての価値が低かった

マカダミアナッツを試しに

一粒食べてみると、噛むほどに

バターのようなクリーミーさが

口一杯に広がった。

 

これはいけると早速、1本4ドルの

マカダミアの苗を5000本購入。

 

現在の価値では、

およそ7200万円。

 

自分を信じ、

イチかバチかで

賭けに出た。

 

順調に実をつけ、

収穫というときに

ハリケーンがハワイを襲い、

マカダミアの木は全滅。

 

 

   

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