今回は、1月7日放送の

ネーミングバラエティー

日本人のおなまえっ!

振り返ってみたいと思います。

 

 

 

明智光秀サマは”明智”ではなかった!?

 

豊臣秀吉サマの家臣が記した

惟任退治記」に

惟任日向守秀吉とあるが

これは明智光秀の事なのか?

 

 

今まで明智だと思っていた光秀が、

本当は「惟任日向守秀吉」だった?

 

静岡大学名誉教授の小和田哲男さんよると、

本能寺の変の7年前の1575年に天下の

実権を握りつつあった織田信長は、

家臣たちの名字を改めたいと朝廷に

願い出て、許可を得る。

 

信長明智の名字を「惟任」と改め、

また今の宮崎周辺にちなんだ「日向守

という官職を名乗らせたという。

 

当時、信長は光秀以外の家臣にも

九州にゆかりのあるおなまえを

付けていたそうだ。

 

小和田さんは、同時期に

羽柴秀吉が「筑前守

 

羽柴筑前守秀吉という今の福岡周辺に

ちなんだ官職を名乗らせたことに

注目している。

 

これは信長が九州・島津氏と

将来戦うことになると予想。

 

秀吉光秀を九州攻めの

総大将にするつもりで、

秀吉を筑前ルート、

光秀を日向ルートという事を

ある程度考えた任官だったと

思っているという。

 

 

   

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信長自らの野望を将来、

実現するために九州の

お名前を付けたというのが

小和田さんの考え。

 

 

ところが、名字研究家の

森岡浩さんは信長が九州の古い名字

惟任」を与えたことになっているが、

光秀の時代以前に「惟任」という名字は

史料に全くないという。

 

実は”惟任”が九州の名族のお名前とする

史料は江戸時代に書かれたもので、

戦国時代に確実にあったのは

惟宗」だという。

 

 

惟宗サマは平安時代には

医師や法律家などを輩出した名家で、

九州の島津氏や氏のご先祖様

ともいわれる。

 

惟宗サマを参考に、信長

惟任」という九州っぽい

おなまえを創作したという。

 

 

歴史家の乃至政彦サマは、

お名前を変えた直後の

天正3年の光秀の署名に注目。

 

すると、「惟任」の「」に

あたる字が立心偏ではなく、

糸偏の別の漢字だという。

 

信長の家臣が書き残した

信長公記」に書かれている

」にあたる字も良く見ると、

維任」。

 

」は、”いとう”とも読める。

 

字は違うが、いとうという人は

九州にいるという乃至さん。

 

伊東氏は戦国時代の九州に実在し、

日向国で勢力を伸ばしたというのが

乃至さんの考えだった。

 

乃至さんは、信長独特の遊び心が

背景にあったのでは?と考えている。

 

このおなまえ問題は、本能寺の変

原因だったのかも知れない…。

 

 

   

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信長のネーミングセンスは

独特なもので、信長子ども

つけたおなまえとは…。

 

長男・信忠の幼名は奇妙丸

次男・信雄のお名前は茶筅丸

六男・信秀大洞で、

九男・信貞の幼名は

だったという。

 

 

   

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