今回は2月14日放送の番組
家、ついて行ってイイですか?
東京都・渋谷駅で
タクシー代をお支払いする
代わりに家を見せてもらう企画
を振り返ります。
お父さんが外交員で
ずっと海外に住んでいたという
バイト先から家に帰る
20歳のもりさんと交渉成立。
そのお父さんは今は
お亡くなりになられて
母親と二人で暮らしている。
東京生まれで3ヵ月後に
ニューヨークへお引越し。
4年後、南アフリカの
プレトリアに2年住んだ後
モスクアで3年。
そしてまた東京で6年、
パリに3年、東京に2年と
お父さんのお仕事の関係で
色々な場所で暮らしていた
ようです。
もり家STYLE1
難しい話だと英語で行く
I Know, as a dipomat you
work from the country
that you are certified from.
お父さんは、様々な国に派遣され、
各国の大使と共に国際的な
交流・交渉をされていたという。
もりさんには、30歳になる
お兄さんがいて、
トランスレーターとバーテンを
しているという。
お父様は5年前に
自殺されてしまった。
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もり家STYLE2
車庫にBMW
もり家STYLE3
「かぞく」がお出迎え
掛け軸に、かぞくとかいてあり、
もりさんが小学3年生位の時に
学校で書いたもの。
ロシアから引っ越してきて、
友達もいなくて何を書こうか
悩んで家族が一番良いと思い書いた。
ちょっと前に仕事から帰ってきた
お母様も登場する。
お母様によると、ご主人が
亡くなり、当時の生活と
今の生活とガラッと変わって
しまい、早くなんとかしないと
と思いつつ、少し部屋が
散らかっている。
もり家STYLE4
渋谷を一望
高台になっていているので、
窓から左の方が恵比寿、
右が渋谷の景色が見れる。
もともと、この自宅は
お母様の実家の祖父母が
住んでいて、祖父は、
建設会社をしていて、
叔父さんが建築家
だったそうです。
自宅は、母方の祖父と
叔父により建築された。
叔父さんは、
近代建築の三大巨匠の一人と
評されるアメリカの建築家
フランク・ロイド・ライトの
タリアセンと呼ばれる
共同生活をしながら建築塾で
学んでいたという。
もり家STYLE5
フランク・ロイド・ライトの
意匠が息づく家
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今は無き
ワールドトレードセンターを
設計するチームで
トイレを作っていたらしい。
もり家STYLE6
アメリカサイズのオーブン
ターキーが(丸ごと1羽)
焼けるようにするため。
ご主人が亡くなられた後は
やらなくなってしまった。
冷蔵庫には、もりさんが
保育園の時に撮った写真を
両親がマグネットに
したものがある。
もり家STYLE7
クリスマスツリーは
常時設置
新年は、六本木にある老舗の
手打ちそば屋のホンムラアン
でお蕎麦を食べる。
もりさんは、お父さんから
いつも My Little Angelと
言われていたという。
みんなお父さんが好きで
食事をするときは、お父さんが
喋っている時は誰も喋らなかった。
お兄さんは、主に国連や大使館の
子供たちが通うUNIS(国連国際学校)
に通い、日本に戻ってくると
慶応大学へ行ったという。
お母様とお父様の出会いは、
慶応大学2年生の時英語の
授業で一緒になったという。
たまたまお父様の誕生日に、
クラスのみんなで集まる事に!
帰りに雨が降ってきてしまい、
お父様は傘を持っていたので
入れてもらうことにした。
二人で傘に入り、話をしている
うちにお互い親近感を感じた?!
もりさんは、お母様の
優しくて、人の悪い所を
探さないのが好き。
そして、いつも
みんなに愛をあげる人。
もり家STYLE8
ダチョウの卵に寄せ書き
南アフリカにいた時に、
日本人のお友達が、
ダチョウの卵にメッセージを
書いて送ってくれた。
南アフリカ時代、お父様は
参事官として日本大使館に勤務。
日本が主導してきたアフリカ開発が
テーマの国際会議TICADが開かれた年
で、その事に関わっていたそうです。
ロシアでも、参事官を務め日露間の
政治的案件を扱い、特に北方領土では、
四島同時返還という強い信念を
持って交渉に当たっていたそうです。
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飾ってあるメダルのような
物には、Mossadと書かれている。
それは、世界最強とも言われる
イスラエルのスパイ組織で、
その実力はアメリカのCIAに
並ぶとも評されている。
その時に知り合った情報官から
貰った物ではないかと
推測される。
お父様が亡くなられた時には、
日本版CIAとも言われる
総理管轄の機関
内閣の情報調査室に出向中。
家族にも話せない
国家にとって重要な
機密事項などを背負って
家族との会話もなくなった。
当時、お父様ことを
いろいろな所で書かれていた
記事があった。
死因など、あの時
何があったのか
お母様は今でも
知りたいと思っている。
亡くなった後に、
当時 両親の介護もあり、
精神的にかなり追い詰められて
事を知ったそうです。
仕事柄、暗殺とかあっても
おかしくないような立場
にもあったのだとか。
もり家STYLE9
LGBTの象徴
“レインボーフラッグ”
私は隠しません、
12~13歳くらいに
そう感じたという。
今、お父様に伝えるとしたら、
20歳になったばかりなので
「大人になったよ」
人生で何が起こったか、
ゲイとかカミングアウト
して、これが私だよ
って言いたい。
お母様と
東京レインボープライドに
行った時、母から
レインボーのロザリオを
買ってくれた時は
凄い感動しました。
その事を知って
びっくりしたお母様。
キリスト教の中で許されおらず、
物凄い葛藤があったと
お母様はいいます。
たとえキリスト教の教義から
外れたとしても、神はもりを
愛して下さっているということを
もりにはわかって欲しかった。
お父様の最後の手紙には、
もりが全然
この件には関係ない。
凄い良い娘でした、
本当に本当に好きです。
でも、ごめんなさい
でもずっと愛しているので。
(日本語訳)
お母様にとっては、
暗殺であった方が
まだ気が楽だった。
でも、たぶん私は、
自死だったと思います。
他殺であった方が
気持ち的には楽。
ずっと夢を見ているみたいで、
未だにまだ何か現実感がない。
受け入れていない、
消化できていない
のかもしれない。
お父様が、
何を考えていたのだろう
どうして死んだのか
考える余裕がない。
だから、ないままここまで
来てしまっている感じが
するのだそうです。
もしお父様がいるなら、
一人でいると色々悩むことも
多いので、そういう時
支えてくれただろうと
思いますと語った。
若い時に結婚して
しまったので
主人の妻であることが、
私の職業でもあった。
ところが主人が亡くなって、
私自身死んでしまった。
だから今 必死に
自分のアイデンティティを
築いている真っ最中
なのだそうです。