今回は、12月16日放送の
消えた天才
レジェンドが勝てなかった天才SP
葛西紀明さんが影響を受けた天才
を振り返っていきたいと
思いますので宜しくお願い致します。
スキージャンプのレジェンド46歳
葛西紀明さんには最も影響を受けた
悲劇の天才ジャンパーがいるという。
2014年 ソチ五輪で史上最年長41歳
にして銀メダルを獲得し、
ギネス世界記録に認定された
葛西さんは、19歳から五輪に
8大会連続出場して46歳の今も
現役で活躍している。
そんな葛西さんが最も影響を
受けた天才とは一体・・・。
天才は、国内の試合で100勝
はしていて、葛西さんでもまだ
辿り着いていないらしく、
国内のジャンパーでは1番、
次に高梨沙羅ちゃんかな?と
葛西さんは語る。
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今から40年前の国際大会で
当時、日本のジャンプは
低迷期だったとされたが、
そこに日本の天才が登場する。
そして白鳥のようなフォームで
滑走した天才は驚異のジャンプを
決め、優勝していた。
W杯 日本人初優勝も成し遂げた
その天才とは、秋元正博さん。
葛西さんが塗りかえるまで、
日本最多W杯優勝4回で
最多記録だった秋元さんは
23歳の時、1980年に行われた
レークプラシッド五輪に初出場
するも50センチ差で4位に終わる。
4年後の大会では、金メダル
最有力とされていたが、
4年後の代表メンバーの中に
秋元さんの名前はなく、
その後のオリンピックにも
出場していない。
天才 秋元さんが消えて36年
現在の秋元さんは、地元の北海道に
住んでいるという。
消えた真相は・・・
36年前、練習を終えた秋元さんは
車で帰宅していた時、人身事故を
起こしてしまい70代の男性の命を
奪ってしまっていた。
執行猶予付きの判決と、
全日本スキー連盟は、秋元さんに
国内外全ての大会に対する
無期限の出場停止が言い渡される。
ジャンプに戻ることなく、
遺族に償うため、住み込みで
工事現場の仕事をはじめ、
休みの日は近くのお寺で
被害者に手を合わせ後悔と
反省の毎日を過ごす秋元さん。
決して脳裏を離れない
あの光景が浮かぶ。
プレハブに泊まりながら、
働いている時間が終わらないで
くれと願っていたという。
終わると、考えてしまう。
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苦しみ続けること2年。
かつて所属していた
スキー部の関係者が、
スキー部に届けられた
一通の手紙を秋元さんに
渡しにやってきた。
その手紙は、秋元さんに
ジャンプを続けて欲しいという
内容だったそうだ。
手紙を頂いたことに秋元さんは、
手を差し伸べてくれた、
遺族の人にそういって頂けた
のが一番嬉しいと思いを語ってくれた。
さらに、秋元さんの復帰を願う
署名の束も用意されていたそうだ。
そうした人々の思いもあり、
スキー連盟は、秋元さんの
出場停止の解除を決める。
でも、やっていいのか?
という葛藤もあり、悩む。
ジャンプしかお前には出来ないだろう、
それがお前の使命じゃないか?
ジャンプで結果を残す事が償い?
いろいろ考えた結果、
秋元さんは現役復帰を決意するも、
ブランクは思った以上に厳しいもの
であったが、事故から2年半経った
1985年のW杯 札幌大会に
秋元さんは出場。
大会には、五輪の金メダリストの
ニッカネン選手の出場など、
世界最高峰の戦いとなった。
1回目のジャンプで1位の
ニッカネン選手との差は8m。
2度目のジャンプで秋元さんは、
99m50で暫定1位となり、
そのまま復活の優勝を果たした。
この結果に、秋元さんは
遺族の方が飛ばせてくれた
みんな応援してくれて本当に
ジャンプやってて良かったと
感じていたそうです。
その後、32歳で引退した
秋元さん。
ある少年との出会いが
関係していたという。
それは、秋元さんが練習に
訪れた北海道下川町の
ジャンプ台で大人顔負けの
ジャンプをした少年の姿が。
その君の名は、葛西紀明さん。
秋元さんが衝撃を受けた少年、
葛西紀明には勝てないと、
16歳の葛西さんが国際大会デビュー
したその年に秋元さんは
引退を決めていた。
葛西さんの指導者として
サポートした秋元さんが
引退したのは葛西のせい!
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