今回は11月14日放送の
ザ!世界仰天ニュース
を振り返ってみたいと思います。
520人が犠牲…
日航ジャンボ機墜落事故の原因
この事故は1985年8月12日、
夕方5時ごろ東京羽田空港。
普段から利用する
ビジネスマンに加え、
家族連れや若い人も多く、
乗客はほぼ満席の509人。
コックピットの
運航乗務員は3人いた。
事故の44分前、
定刻から12分遅れて
午後6時12分に離陸。
およそ1時間後には、
大阪伊丹空港に
着陸するはずだった。
一体、なぜ123便は突如、
尾翼と油圧を失ったのか?
当時、事故原因の正式発表が
なかなかされないなか、様々な
憶測が飛び交い、事故から
2年後の1987年6月に当時の
運輸省が管轄する
事故調査委員会は
事故調査報告書を発表。
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事故調査委員会の見解
そこで、原因と推定されたのは、
後部の圧力隔壁に空中で
穴が開いたこと。
圧力隔壁とは?
飛行機は主に高度1万m程度を
飛んでいて、そこは気圧が低く、
空気も薄いため、長時間いると
酸欠になり、気を失う。
一方、飛行機内の空気は
地上の状態に近くするため、
圧縮されている。
その圧縮空気が外に
漏れないように壁がある。
それを圧力隔壁とよぶ。
これになぜか空中で
穴が開き、機内の
圧縮された空気が、
一気に吹き出てたことで
垂直尾翼を破壊したと
考えられた。
さらに、後部に
集中していた
油圧ポンプ4系統
すべてを吹き飛ばしたと
思われた。
圧力隔壁が壊れたきっかけは、
事故の7年前1978年6月に遡る。
大阪伊丹空港で後の123便は、
着陸の時に機体後部を
滑走路に擦り、しりもち事故
を起こした。
この事故で死者はいなかった
ものの後部圧力隔壁の下半分が
壊れていた。
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その修理を担当していたのは、
飛行機を開発したアメリカ
ボーイング社の作業員40人程。
行ったのは壊れた下半分の
隔壁を取り換え、上半分と
つなぎ合わせるというもの。
指示書には、上下の隔壁を
こうつなぐよう書かれていた。
まず、上の隔壁と交換した
下の隔壁との間に1枚の
継ぎ板を挟む。
そこに3点リベットを
打ち込むことで、上下
それぞで2つのリベットで
固定できる。
ところが、実際に行われたのは
継ぎ板が切れている。
それでは当然、
補強強度が落ちる。
明らかな修理ミス。
そして、7年間の
金属疲労によって、
圧力隔壁のつなぎ目から
亀裂が入り、一気に
破壊されたとされる。
そのミスを日本航空も
点検で発見することが
できなかった。
遺族たちは、
8・12連絡会という
組織を作り、事故から
8か月後に日航・
ボーイング社・運輸省の
幹部らを業務上過失致死傷で
刑事告発。
その後、書類送検されたが、
嫌疑不十分のため、不起訴。
不起訴になった最大の理由は、
ボーイング社から事情聴取が
できなかったこと。
アメリカの場合、
航空機事故などが起きると、
再発防止のため、摘発より
司法取引を行い、真実を
明らかにするのが一般的。
その制度のない日本では、
難しかったという。
一方、日本航空の
整備・点検に関しては、
疲労亀裂の発見は、
当時は困難だったとした。
その後、ボーイング社は
「しりもち事故の修理ミスに
対しては、賠償義務を認める」
とし、日本航空も責任を認め、
ともに遺族に賠償金を支払った。
この事故による生存者は4人。
10代の少女、20代の女性、
30代女性とその娘。
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