今回は12月12日放送の

誰も知らない明石家さんま

さんま少年時代物語

を振り返って

みたいと思います。

 

 

今まで語られることのなかった

祖父音一さんと泣き虫だった

さんま少年の物語が放送されて

おりましたとです。

 

 

1985年、30歳の明石家さんまさんは

超然絶後の人気者へと成長し、TVや

ラジオのレギュラー番組は10本以上!

 

今のがあるのは、間違いなく

おじいのおかげだという。

 

 

 

1955年、杉本家の次男として

誕生した高文さんこと、

明石家さんまさん。

 

両親は秋刀魚の加工会社を

営んでいたが、さんまさんが

3歳の時に親が病気で亡くなられ、

ちゃんとの思い出は残って

いないのだそう。

 

 

さんまさんが小学生くらいに

なった時、親が再婚して

新しいキレイな

親がやってきた。

 

血の繋がっていない

本当の親子じゃないことは

子どもながらに理解していた

さんまさんは受け入れることが

出来なかった。

 

自分の母親はこの人じゃない、

何も考えずに甘えている

羨ましく、どこにも

ぶつけようのない寂しさを抱えた

さんま少年は泣いてばかりいた。

 

そんな時にそばにいてくれた

祖父音一さんがいつも魔法の

言葉でさんま少年に語りかけた。

 

 

   

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つらい時こそ笑え

悲しい時こそ笑うんだよ

 

自分が笑えたら今度は

お前みんなを笑わせてやれ。

 

そしたら嫌なこと全部、

吹き跳んで楽しい事しか

残らないみんなハッピーな人生。

 

祖父の笑顔を見ると、

不思議と元気をが出た

さんま少年。

 

祖父さんま少年の家族

一緒に暮らし、両親はずっと

忙しくしていたからいつも

さんま兄弟の遊び相手に

なっていた。

 

祖父は人を笑わせることが

大好きで、プールでは必ず

水中でパンツを脱いで、

ついでにオシリも出す。

 

祖父のおかげでさんま少年には、

友達が増え、不思議な事に

笑っていると周りに人が集まった。

 

さんま祖父は地元で

三バカ大将と呼ばれ、

ちょっとした有名人

だったらしい。

 

この頃からさんま少年は

祖父の影響で、人を

笑わせるのが大好きに

なったという。

 

 

生真面目な祖父

相撲の興行とかバイク屋を

やろうとして失敗した借金を

必死に返していたのだそう。

 

間違いなく、さんま少年の

中にある笑いの根っこは

祖父のDNAで形成されている!

 

 

祖父とプロレスごっこを

していた時、祖父の股間の

血管 筋が裂けて全治1カ月に。

 

入院した祖父のお見舞いに

行った時、お見舞いに来ていた

女性祖父が手を繋いでいたのを

さんま少年目撃した。

 

 

   

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その女性の工場で

働いている従業員。

 

祖母を早くに亡くしていた

祖父女性と恋愛関係に

なっていたらしい。

 

 

さんま少年が10歳だった

ある日、近所にもウワサが広まり、

追い詰められた祖父さんま兄弟

公園に呼び出し、一緒に暮らせないと

別れを告げて、いなくなった。

 

その日の夜、兄弟で一晩中

泣き続けたそうだが、祖父

行く所がどこにもなかったと

帰って来た。

 

 

高校卒業後に落語家になると

決めたさんまさんだったが、

親に反対されてしまうも、

祖父のおかげで落語家に

なることが出来た。

 

 

さんまさんが芸人になって10年、

祖父が普段からボケ倒していた

せいで、家族でさえ認知症に

半年間気付いていなかったという。

 

 

1985年7月5日、

杉本音一さんは

享年85歳で永眠。

 

 

さんまさんは祖父

自分の近くにいる人を

笑わせたら、世の中みんな

幸せになれると思ってたんだ。

 

だからずっと、たちのことを

笑わせようとしていた。

 

日本中の人が笑顔になって、

1人残らず幸せになって欲しいから

は死ぬまで人を笑わせる、

死んだ後も笑わせたいな…。

 

 

   

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