今回は8月25日放送の
チコちゃんに叱られる!
Don’t sleep through life!
を振り返ってみたいと
思いますので
宜しくお願い致します。
何も考えないで、
のほほんと暮していると
チコちゃんに叱られますよ。
畳1畳はなぜあの大きさ?
徳川家康が年貢をたくさん
とりたかったから
詳しく教えて下さるのは
畳の歴史に詳しい
名古屋工業大学
河田克博名誉教授。
河田さんによると、
畳1畳の大きさは
縦 約176㎝
横 約88㎝という
ざっくりとした
目安がある。
畳の大きさ
→統一ではなく、
地域で異なる
先ほどの畳の大きさは、
ほぼ全国で使われている
「江戸間」と呼ばれている畳。
関西や西日本では、
江戸間よりも大きい
縦 約191㎝
横 約95㎝
の「京間」と呼ばれる
畳もある。
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同じ1畳でなぜ
大きさが違うのか?
「江戸間」は徳川家康が
決めたというふうに
言われている。
「京間」は織田信長が
深く関係している。
現存する最古の畳は
聖武天皇が使用した
御床畳と呼ばれる
非常に薄っぺらな畳。
平安時代では2mを超える
サイズの畳もあり、現在の
畳とは全く異なる
大きさだった。
そして、室町時代に
入ってから、少しずつ
畳の大きさが統一されて
いった。
その畳の基準と
なったのが1間で、
家を支える柱と柱の
間の距離のこと。
室町時代の中期に起こった
応仁の乱(11年続いた内乱で
京都は焼け野が原に)で、
京都の町は荒れ果ててしまった。
この時にどういうわけか、
1間を6尺5寸とした家が
建てられ始めた。
そして、織田信長は
1間=6尺5寸(約197㎝)を
もとに年貢を取った。
年貢とは、現在でいう
税金のようなもので、
農民が収穫した米を
領主におさめるもの。
織田信長は田畑を
1間区切りで測り、
それに応じて
年貢の量を決定した。
そしてその頃、1間6尺5寸の
家に合う畳の大きさも決まった。
それが、縦 約191㎝
横 約95㎝の畳で現在の
京間の大きさ大きさとなった。
このように織田信長が
大きく関わって、
統一され始めた
畳の大きさ。
次に大きく畳の大きさが
変わったのが
徳川家康の時代。
江戸に新しい街を
つくるために、
さらに多くの年貢が必要。
そこで、徳川家康は1間の
長さを織田信長の時より
さらに短い6尺(約182㎝)
にした。
1間四方の年貢量は同じ
→1間が短いほど
年貢が取れる
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織田信長と徳川家康の
1問の差はおよそ15㎝。
家康の方が1.17倍とれる。
そして、江戸の街では
1間=6尺を基準に家が
次々と建つ。
この1間6尺に合うように
畳の大きさも決められていった。
中京間と呼ばれる畳は
約182㎝ × 約91㎝
織田信長は愛知県西部の
尾張出身。
徳川家康は愛知県東部の
岡崎出身。
名古屋は徳川家康が
城下町をつくるが、
もともとは織田信長の領地。
両方に忖度して生まれたのが
中京間だそうだ。
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