今回は9月27日放送の

ビーバップ!ハイヒール

で放送された

教科書に載らないかつての

大富豪に迫る回を振り返って

みたいと思います。

 

数十年前の日本には巨万の富を

豪快に使った金持ち達がいたという。

 

 

知られざる日本の

大富豪物語を教えてくれるのは、

多摩大学客員教授河合敦先生。

 

河合先生はかつて日本には、

教科書には載っていないんですけど、

その人がなくては今がないという

大きな影響力を持った大金持ちが

いたという。

 

そういった多くの豪商たちが

各地に君臨していて、人のために

豪快にお金を使い、国を動かす事

もあったようです。

 

 

前回分はこちら

 

 

   

Sponsored Links

   

 

 

山形の英雄  本間光丘

 

それでもその偉業を称えようという

地元の人達の力によって、今も

本間家ゆかりの建造物が残され、

歌も歌い継がれているそうです。

 

本間様には及びもないが

せめてなりたや殿様に

 

 

 

 

 

世界遺産を守った

奈良の山林王 土倉庄三郎

 

1840年に奈良県吉野郡に生まれた

土倉庄三郎は、父の代から

吉野郡の大山主で小さな時から

山歩きが大好き。

 

16歳で家督を継ぎ、独自のアイデアで

家業を広げた庄三郎は明治維新を迎え、

木材の需要が増加すると土倉家

財産は膨れあがった。

 

所有した最盛期の山林は、

2,700万坪(甲子園 約6,900個分)

 

大阪市が収まるほどの

山林を所有し、いつしか

山林王と呼ばれ、巨万の富を

手にしていたという。

 

自由民権運動の思想に賛同していた

庄三郎さんは資金を援助していた。

 

自由民権運動のリーダーである

板垣退助の洋行費4億円

(※現在の価格に換算)を提供。

 

他にも、山縣有朋 伊藤博文

後藤象二郎などの明治の元勲たちが

庄三郎に会うため、吉野に通っていた。

 

儲けたお金を溜め込まずに、1/3は林業・

1/3は国・1/3は教育、全て日本の将来の

ために使うべきと、生涯を吉野で過ごした

庄三郎だったが、常に未来を見据えていた。

 

そんな時、吉野に廃仏毀釈とよばれる、

神仏分離令によって仏教破壊運動が起こる。

 

修験道が廃止され、吉野の桜を求める

花見客が激減し、吉野の住民たちは

一気に困窮してしまったという。

 

そこへ、大阪で商いをやっている者に、

桜の木を切って薪にしたら全部買い取る

と提案された住民たちは、命には

変えられないので桜を売れば生活が

なんとかなると考えた。

 

そして桜を売ったお金で杉や檜を

植えれば儲かるはず、杉の苗を

わけてもらえないかと庄三郎

元へと住民たちは向かった。

 

庄三郎は苗の調達を打診してきた

住民たちにその相談には

乗れないと断った。

 

理由は、いずれ日本は世界の国々と

交流する時代が来て、桜は

必ず日本の象徴となるその日まで

何としてでも桜は守らなければ

いけないと説明して庄三郎

吉野の桜を全て買い取った。

 

そして平成16年に世界遺産に登録された。

「紀伊山地の霊場と参詣道」

 

今では多くの外国人が訪れ、

吉野の桜を眺める事が出来るのは

庄三郎のおかげだった。

 

 

   

Sponsored Links

   

 

 

600億円を使い果たした

稀代の放蕩王 薩摩治郎八

 

1920年代 パリの社交界で名を馳せた

日本人がいたという。

 

それは綿織り物で財を成した

木綿王・薩摩治平衛の孫の薩摩治郎八

 

19歳で英・オックスフォード大学へ留学し、

実家から1か月1万円の仕送りを

してもらっていた。

(※現在で換算した額3,000万円)

 

その後、22歳で渡仏し

多くの芸術家と交流を持つ。

 

当時のフランスは日本人にとって

訪れやすく、多くの画家が海を

渡っていたという。

 

多くの日本人画家のパトロンとして

有名になった治郎八は、フランス社交界に

に夢中になり、高級レストランで多くの

ホステスを周囲にはぶらせ、他の客と

どれだけお金を使えるか競い合った。

 

祖父が貯えてきた財産を使い、

妻・千代子に際限なくお金をかけ

高級雑誌の表紙を飾らせセレブに

変貌させるなどしていた。

 

この時の治郎八夫婦の1ヶ月の生活費は

1億5,000万円(※現在の価格に換算)

 

そんな中、ジャーナリストとして

活躍した後、政治家となった

アンドレ・オノラとの出会いで

治郎八を大きく変える事になる。

 

贅沢に興味がなく、弱者への思いやる、

国際交流を通じて平和を目指す

オノラの生き様に触れる事で

治郎八に変化が起きる。

 

オノラが発案者となる

パリ国際大学都市、

カナダ館  アメリカ館

ベルギー館。

 

世界各国の政府が資金を出し、

自国の留学生のために建てた

宿泊施設に日本政府も資金を

提供する予定だったが、関東大震災の

影響で資金調達が出来なかった。

 

困った日本政府は援助を呼びかけると、

治郎八 当時28歳は総工費100万円

(現在の30億円)を出資し、豪華絢爛な

日本館を建造。

 

1935年 世界恐慌の影響で

実家の商店が倒産

 

10数年で600億円を散財した

治郎八はやむなく帰国した。

 

 

1939年 ドイツ軍がポーランドを

侵攻、ヨーロッパが戦場と化し、

多くの日本人が帰国する中、

治郎八は船に乗り再び

フランスへ向かった。

 

そこでナチスに捕らわれた

文化人の解放、自らの人脈と金で

多くの人を救った。

 

 

   

Sponsored Links