今回は12月27日放送の

世界の何だコレ!?

ミステリー 4時間SP

振り返ってみます。

 

 

明治

今年!

八甲田山遭難事件に新事実

 

明治35年の1902年

青森県の山で

惨事が起きた。

 

八甲田山 雪中行軍遭難事件

という青森市街から八甲田山の

田代新湯に向かう雪山での

訓練中に発生した遭難事件で

陸軍兵士210名中199名が死亡。

 

陸軍は惨事の原因を未曽有の

大寒波と発表したが、2023年

6月に当時発表された説を覆す

新事実が判明したという。

 

あの事件に関する新事実を

発見し、話題となっている

大矢さんは気象予報士の

資格を持ち、2度にわたり

キリマンジャロ登頂を

果たした天気と山の

スペシャリスト。

 

明治35年1月23日に

青森駐屯地所属の

第五連隊210名は、

穏やかな天候のもと、

駐屯地を出発。

 

目的は雪中行軍。

 

これは、来る日露戦争に

備え主要な交通が

破壊された際、雪山を

人力で物資の運搬が

できるかどうかを

調査するためのもの。

 

駐屯地から20km先の

田代を目指し、1泊2日で

折り返す行程。

 

午前6時55分に駐屯地を

出発した一行は、

午前11時30分に9.6㎞先の

小峠に到着し、ここまでは

計画通りだった。

 

その後、吹雪により減速し、

馬立場に到着したのは、

予定よりおよそ

1時間遅れだった。

 

遭難の一部始終を

生存者から聞き取った

報告書によると、

次の目的地 田代を視界に

捉えた一行は日没まで

わずかではあったが、

夜の行軍を決行。

 

 

   

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これが、悲劇の始まり。

 

吹雪の中、3時間以上歩くも

目的地の田代は見つからず、

ひとまず休むことに。

 

寒さをしのぐための雪濠を

作ったが、いくら掘っても

土がみえず、暖を取ることが

出来なかった。

 

気温は-20℃を下回り、

兵士たちは凍死を防ぐため、

仮眠を取らずにいたという。

 

大隊長は夜明けを待たずに、

午前2時30分に出発地点へと

引き返すと決断した。

 

気温は-25℃で

陸軍の発表では、

未曽有の大寒波が理由で

多くの兵士が命を落とした

とされている。

 

 

ところが、大矢さんは

今年の2月にラジオで

やっていた八甲田山

雪中行軍の特集で

八甲田山の状況に

疑問を抱いた。

 

注目したのは風と気温で、

あの日はどれくらいの

強さの風が吹いたのか?

実際の気温は

どうだったのか?ということ。

 

日本の気象庁にあたる

アメリカ海洋大気庁

(NOAA)が1836年

江戸時代の天保7年まで

遡ったデータベースを

無料で公開している。

 

報告書には-20℃と

書かれているが、実際は

-12℃。

 

-25℃と言われて

いた時は-15.6℃

だったことが判明。

 

ここから言える事は、

未曽有の大寒波

ではなかった。

 

 

   

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行軍で汗をかき、

着替えることが

できなかったため、

木綿の下着によって

低体温症が発生。

 

兵士の体温を

どんどん奪っていった。

 

また、第五連隊の

ほとんどの将兵

田代新湯を

ほとんど知らない。

 

八甲田の1月は吹雪き、

地元の道案内の人でも

吹雪いたら道に迷う。

 

その中を

ほとんどわからない

人たちが歩いたので、

道案内が必要だった。

 

本来、道案内を

つけるのだが、

急きょ決定したため、

案内人を探せないまま

出発した。

 

大寒波ではなかった中で

下着を木綿じゃなくて、

ールのような素材を

使っていれば、低体温症も

まぬがれたのではないか。

 

もし、案内人をつけていれば

大惨事は起こらなかった

かもしれないそうだ。

 

 

   

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