今回は2月16日放送の
チコちゃんに叱られる!
Don’t sleep through life!
なにも買わずに帰ることを
なぜ「冷やかし」?
を振り返ってみたいと
思いますので
宜しくお願い致します。
何も考えないで、
のほほんと暮していると
チコちゃんに叱られますよ。
「冷やかし」とは?
紙を冷やす間のひまつぶし
詳しく教えて下さるのは
江戸・東京の文化に詳しい
江戸川大学 斗鬼名誉教授。
斗鬼先生によると、
冷やかしは江戸時代に
生まれた言葉で
紙の作り方がルーツ。
江戸時代、紙は高級品
だったため、古い紙を
回収したり、落ちている
紙くずを集めたりして
再生紙を作り、何度も
使用していた。
再生紙を作る職人たちは
東京の浅草に多く集まって
いたので、浅草紙と
呼ばれていた。
使い古した紙で
作っていたので
とても粗く、品質が
悪いため、主に
おしりをふく紙として
使われていたそう。
浅草紙を作る時に
「冷やかし」の
ルーツとなった
工程があったそうだ。
浅草紙は川の水にさらした
大量の古紙や拾った紙くずを
釜で煮て柔らかくし、棒で
たたき細かくしたものを
すきあげて、もう一度
紙にしたもの。
Sponsored Links
釜で煮る→冷やす
⇒2時間
2時間の暇つぶしで、
吉原遊郭へ。
江戸時代の地図を
見てみると、浅草紙の
職人が働いていたのが、
隅田川につながる水路の
周辺で、現在はその地域に
紙洗橋という地名が
残っている。
そして、吉原遊郭は
浅草紙の職人がいる
エリアから
すぐ近くにあった。
浅草紙職人
→お金がなく遊ばず帰った
そして、遊女たちは
「あの客は、紙を冷やかし
ている間に暇つぶしに来た
だけの冷やかしよ」と
いうように、浅草紙の
職人たちのことを
冷やかしとよんだ。
そして、買う気もないのに
来店する人・行為
→冷やかし
当時、吉原遊郭は文化や
流行の発信地あったので
「冷やかしという言葉は
どんどん広まっていった
んだと思います。
ちなみに、殿さまや
お金持ちは、船で
吉原遊郭へ。
浅草紙職人は田んぼ道を
歩いて吉原遊郭へ
→足元・服が泥だらけ
そのため遊女たちは、
服装を見れば「冷やかし」
かどうかが、すぐに
わかったそうです。
船出の紙テープ
なぜ投げられるように?
森野庄吉さんが
助け舟を出したから
詳しく教えて下さるのは
船の運行や歴史にくわしい
神戸大学 海事科学研究科
藤本昌志教授。
船出の紙テープは
日本人が考え、
今では日本でしか
行われていない
セレモニー。
船出のときの紙テープを
考えたのは、森野庄吉さん。
1899年 当時22歳だった
森野さんはカナダの
バンクーバーへ渡り、
その後はアメリカの
サンフランシスコへ移り、
日本人向けの雑貨店の
経営を始め、
実業家として大成功。
Sponsored Links
紙テープとの出会いは
サンフランシスコ万博。
1915年に開催された
この万博は世界各国が参加し、
およそ1900万人が来場。
この万博で日本は
金閣寺をモデルにした
建物や大仏の模型などを
造り、日本文化をPRする等
大盛況だったよう。
万博に笠井商店という
紙を販売する会社が参加し、
商品をラッピングする時に
使う櫻紐という長さ45mの
紙テープを出品したが、
全く売れなかった。
当時のアメリカでは
商品を包む際、主に
布製のリボンが
使われていた。
大量の在庫で大ピンチ
だったときに、助け船を
出したのいとが森野さんだった。
売れ残った紙テープを
大量に買い取った森野さんは
アメリカで大成功し、
余裕があった!?
森野さんは紙テープを持って
世界各国の船が停泊していた
港に向かい、船に乗る人たちに
対し、紙テープで最後まで別れを
惜しむ握手を!と販売した。
森野さんが経営する雑貨店は
港のすぐそばにあったそうで、
普段から港で分かれのシーンを
見ていたんでしょう。
その時に、商売人として、
アイデアが閃いたんだと
思う。
船上にいるいる人が
紙テープを投げ、
見送る人が受け取る
→別れの握手のかわり
買い取った紙テープは
ほとんど売り切れた。
これが人気となり、
アメリカ・中国・
オーストラリア・
ハワイなど、
世界中の港で行われた。
しかし、世界恐慌や
第二次世界大戦など、
船の旅行ができない状態。
戦争が終わると、
人々の移動手段は
次第に飛行機になり、
船の利用客が少なくなった。
Sponsored Links